昨日の補足

昨日の日記ですが、高橋さんのところからのリンクだけで、軽く100人以上の方に読んで頂いたようで、このまま放置するのもなんですから少し補足させて下さい。(u_u)

ただこの文章のどのへんで野嵜さんの正しさが認められているのか分からないのが困った(汗

どちらかというと野嵜さんの方が正しいかと*1と書いたのですが、何処がとは明確に書きませんでしたね。これは言葉足らずだったと思います。私が着目したのは昨日の日記の後半部分、「佛教宗派」の捉え方です。
今までの話の流れで、高橋さんが各宗派について根本的に異なるものと捉えていらっしゃる(ように思える)発言が多かったのに対し、野嵜さんの方は、根本的な違いは無いと考えていらっしゃる(と思われる)発言が多かったという印象を受けました。でも実際にお二人がどのように認識されているのかを知ることは出来ませんから、その辺りを「どちらかというと……かと」という表現で表したつもりでした。

禅をキリスト教と比較して論理性で切ろうとしているのは、野嵜氏であって俺ではないです

それはかなり前まで読み返してみて解りました。ただ、2月3日の高橋さんの発言でなぜ唐突に禅が出てきたのか判らなかったです。もしかすると、「禅は論理的である」との前提に立った上で、その程度の論理では西欧の論理にはかなわないと言っているのでしょうか?

平成十五年十二月二十四日
禅問答とか禅宗とかを攻撃してゐるのではなく、日本人の「論理」に對する認識なんて一休さんの「とんち」レヴェル(ちなみにここで言つてゐる一休さんは、所謂一休宗純ではなくあにめやまんがの一休さん)だと言つてゐるに過ぎないのだが、さつぱり話が通じない。
そもさんせっぱの禅問答も大概、詰らないものだつたりするのだけれども、禅の限界と言ふのは結局のところ、日本人の「論理」の限界に過ぎないのであつて、本質的に俺が批判したいのは日本人が「論理」を「その程度で良い」と思つてゐる根性である

上記の引用は、以前の野嵜さん発言です。これは日本人一般が禅を論理的なものと捉え、そのレベルで良いと思っている事への批判ですから、野嵜さん自身はどう考えていらっしゃるのか判りませんね結局のところ、私の「禅は非論理的」と云ふ指摘は正しいのですというように、禅は非論理的と明言されていますね。もしかすると高橋さんも一般の日本人と同様に禅を論理的だと捉えている人だろうと判断されたんじゃないでしょうか。
ですから、今回の論争の中でキリスト教禅宗の論理性について比較する発言を野嵜さんが初めてなさった時、そもそも禅は論理的であるはずがないものですから、その前提がおかしいのではないですかと切り返せば良かったんですよ。
最後になりましたが、かっぱさんのお話自体は優しさがあって好きです*2と言って頂いて有難う御座います。ちょっと照れ臭いですが、素直に喜んでますよ。(笑)