一般人の佛教理解

野嵜さんの闇黒日記で以下の記述を読んで、常識的な日本人の佛教理解のレヴェルについて再認識しました。

平成十六年二月十六日
普通の日本人にとつての佛教と言つたら、葬式佛教だらう。(中略)
葬式で、木魚を叩いて使者死者とは違ふ佛樣に經を上げてゐる僧侶のうしろで、遺族は使者死者を「佛樣」と呼び、涙を流してゐる。僧侶にとつて、使者死者は死んで四十九日が經つたら轉生する存在である。一往、法要によつて使者死者を極樂往生させられる事にはなつてゐるが、親への孝とか言つた理由で法要を行ふのは佛教の教へにはもともと存在しないもので、支那で作られた僞經で初めて出て來る。(中略)
葬式でも、遺族は死者が轉生するとは思つてゐない。轉生するものなら別に嘆く事はないし、ただ苦から逃れられないのだから憐れむだけの話である。しかし、誰もさう云ふ意味で使者を憐れむ事はない。遺族は死者が勝手に成佛してゐると思つてゐる。日本では、葬式佛教で葬式を出される限り、人は簡單に佛になる。葬式佛教で葬式を出されなくても、別に困りはしない。あの世があるかないかは、大概の日本人にとつてどうでも良い話だからだ。日本人は「命あつての物種」と言ふ。常識的に「死んだら終り」なのである。
それだから、日本人にとつての宗教は現世利益の宗教である。

本当にこんなもんなんでしょうか? だったらなんか悲しいです。僕の周りが特殊なのかもしれませんが、傍から見ると僕なんかも狂信者に見えるのかな?
浄土真宗の葬儀から満中陰法要や年回法要については、大叔父が往生した昨年の日記に少し書きました。興味のある方は御覧下さい。