佛も昔は凡夫なり
今日、12月8日は、お釈迦様がブッダガヤの菩提樹の下で覚りを得られて佛陀になられた日です。
佛も昔は凡夫なり
我等も終には佛なり
何れも佛性具せる身を
隔つるのみこそ悲しけれ
これは「平家物語」の中でも有名な場面で、かつて平清盛の寵愛を受けた白拍子「祇王」が、清盛の寵愛が若い白拍子「仏御前」に移ってしまい六波羅を追い出された上、清盛に呼ばれて「仏御前」の徒然を慰めるための舞を要求された時の歌です。自分が仏御前に比して差別待遇を受けている嘆きが篭められているのですが、これには元になった歌があります。
佛も昔は人なりき
我等も終には佛なり
三身佛性具せる身と
知らざりけるこそあはれなれ
こちらは、平安末期に後白河法皇が編んだ「今様」の歌謡集「梁塵秘抄」に収められている歌です。現代語に訳すと「佛(お釈迦様)も昔は人でした。私たちも最後には成佛する身です。三身佛*1になることの出来る性質がそなわっている身体だと知らずに生きていくのは寂しいことだなあ……」という感じでしょうか。
お釈迦様がお覚りを得られたのは、今の僕と同じ35歳です。自力でお釈迦様のように佛になることなどは到底できっこないのですが、南無阿弥陀佛の本願により成佛が約束された身をただただ有難く思う35歳の「成道会」でした。